オウムがサブカルとして身近にあった時代・前
2018-07-16


★オウムを面白がっていた、あの頃の我らは

 今日も朝から晴れてものすごく暑い。窓を開ければもわっとした熱風が吹きこんでくる。慌てて窓を閉めた。

 若い時分、といっても30にならんとしていたかと思うが、フランスを中心に西欧を何度か旅する機会があった。
 初めて行ったときの飛行機は、パキスタンエアラインで、まず北京に停まったあと、カラチやイスラマバードに停まり、そのどちらからパリ行きの便に乗り継いだ。
 そのとき、乗り換えのため現地の空港に降ろされたが、飛行機から外に下りて、その赤茶けた大地に立ったときの風がまさに熱風で驚かされた。最初は飛行機のエンジンからまだ冷めやらぬ風が吹き出ていて、その熱さかと思ったほど、その国は信じられない程暑い熱風の中にあった。
 束の間、迎えに来たミニバスのような車に乗せられて空港内の建物に連れていかれ、そこは冷房も効いていてほっと一息つけたが、この世にあんな暑い場所があるという衝撃は今も忘れない。
 が、人とはそんな地でも外へ出て暮らし生活を営んでいるのである。
 今朝の外の風は、体感としてそんなパキスタンの大地に降り立ったときをとつぜん思い出させた。
 そんな暑さの中でも日々木陰のない野外で働く人や、被災地で懸命に瓦礫や土砂を運び出している人たちがいるのである。胸が痛むが、駆けつけてボランティアとして手伝うことは我はできやしない。

 パキスタンの暑さもだけれど、このところ普段はずっと忘れていた大昔のことを思い出すことが多い。

 我は十代の終わりの頃、自宅の二階を編集室にして、高校の後輩たちと部数500部ほどのミニコミ誌を約一年間出していた。
 ページ数も少ない小冊子というようなものだったけれど、いちおうオフセット印刷で、近隣の書店や喫茶店などに置かせてもらい、自慢するわけではないが、それなりにこの地域では売れてはいて、駅前のレコード屋やら知り合いのお店から広告代ももらっていたこともあってまあまあ採算はとれていた。
 もしそのままずっと続けていれば、椎名誠や沢野ひとしらの『本の雑誌』や『ロッキングオン』のように、ミニコミからメジャー誌へと昇格していたかもしれないと夢想もする。
 ただ、何事も飽きやすく続かない我の性分として、確か6号ほど出して終わりにして、福生のやつらとは縁を切り、我はとりあえず町田にある、バカネ学長のアホウ大学という大学に潜り込み、そこで何年も音楽やらマンガやら自主映画やら日々遊びほうけて、青春を無駄に燃焼させることになる。
 思い出したのは、そんな大学時代のことではなく、そのミニコミをやっていたとき知り合った人が話していたことだ。

 その編集室は出入り自由で、今もそうだが、我は来るものは拒まず、去る者は追わずというスタンスは変わらないから、ミニコミを通していろいろんな人が昼夜問わずやってきて雑魚寝してもいった。※うちは両親共働きで、まったくの放任主義であった。
 その中にナカタさんといったと記憶するが、国立かどこかに住んでいたやや年上のヘンな人がいて、よく遊びに来たし編集を手伝ってくれたり原稿も書いてくれた。二十歳は過ぎていてたと思うが、それでもまだ二十代そこそこではなかったか。
 他にも女の子と同棲して出版社でアルバイトしているやはり二十歳過ぎのハンサム氏とか、関西から家出同然に東京に出てきて住まいもなくそのまま我が大学に通うために借りたアパートに居ついてしまった奴もいたりと、今から思うと若さとはバカさの同義語だと自分でも呆れるほど誰もがそれぞれ「自由」にやっていた。
 
 その中のナカタ氏が話していた話だが、あるとき彼は、中央線沿線の阿佐ヶ谷だかどこかの駅近くのヨガの教室、道場を訪れた。
 ちょうどそのとき、その教室の主宰者だか、師とか先生だとかいういちばんエライ人が来て、教室にいた者たちは皆大喜び、歓待して出迎えた。

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[脱原発時代の昔語り]

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