老いて死に行く者に、最後に残るもの
2018-07-15


★感情と欲望、そこに愛と希望はあるか

 連日、容赦ない猛暑、酷暑が続く。予報では、「命に危険が及ぶ暑さが続く、最大限の熱中症対策を」と呼びかけ、不要不急の外出は控えるように、と警告している。
 今日は15日、まだ七月半ばであることを思うと、いったいこの夏、どうなるのか乗り切れるか不安にさえなるが、とにもかくにも持ち堪えて無事に秋を迎えられることを祈るだけだ。
 そんなで犬猫たちと早朝、夕暮れの散歩と庭木の水やり以外は、ひたすらクーラー入れて家に籠り鍵かけて裸で息をひそめている。

 パソコン作業も、デスクトップタイプの専用パソコン自体が冷房の効かない場所にあるので、この暑さでは怖くて長時間連続使用できない。数年前の秋口、やはり秋になっても残暑が続く中、うっかり起動状態にしていたら突然イカれてしまい大きな損失と痛手を受けたこともある。
 そんなで、パソコンは出来るだけこまめに電源を落として暑さの影響を受けないようあまり使わないようにするしかないのだ。
 そんなこともあり、また拙ブログ、更新怠りついに百位圏外となってきている。が、とにもかくにもこの暑さ、人も物も動物もともかく乗り切る事だけで精一杯なのだから仕方ない。

 それにしても先の豪雨で被災され今も自宅に戻れない人や復旧途上の方たちのことを思えば、暑くて辛いとか大変とか言ってられない。冷房もない猛暑の夏、生活再建の目途もたたない中でのこの暑さ、その心中はいかほどか。
 そんな豪雨災害が予想された日に、多勢集い宴会に興じていた政治家たちは真に糾弾されるべきではないか。そんな浮かれた政権を今も支持する国民もまた同罪ではなかろうか。庶民からの国税が首相案件で特別に優遇され用いられてもこの国の国民は怒らないのだから。

 さておき、このところ人の死についてあれこれ常に考えている。
 去年の今ごろ、同世代の友人・知人の死に遭い、死は親たちの世代だけのものではなく、もはや我らの身近なものに下りてきたという「実感」がつよくある。
 といって、今は、今日明日を生きることだけで手いっぱいで、自らどうやって死のうとか、どういう死に方がいいかとか具体的に考えはしない。思うは、まずは、我が父の「死」のときとあり方であって、それがごく近いとは頭ではわかっていてもどう手を打つか、備えておくか、そこに至らない。
 そう、ともかく日々何とかやり過ごすかだけでいっぱいいっぱいで、何もできずに月日だけが過ぎていく。

 ただ、漠然とだが、人はこうして老いて死に行くのだなあというリアルな認識が父と暮らしていると常にわいてくる。そう、不治の病や事故で若くして無念の死を遂げる人も多々いるが、そうならずに特に進行性の病などなければ、人は長く生き、老い呆けて全身の機能が衰弱して最後の最後は出し殻のようになって死ぬのである。「老衰」とは言ったもので、老衰死という言葉は一般的ではないが、おそらく我が父の場合、老衰のため死去ということになるかと思う。すべてがダメになって機能不全で死ぬのである。

 我が父は、大正13年、10月生だから、今年の秋が来れば94歳になる。来年の正月が来れば、昔でいえば数えで95である。我の身近にそんな歳まで生きた人は今までいなかったし、そんな人と共に暮らしたこともなかった。
 母方の我が祖母はさらに上の百歳近くまで生きたけれど、晩年は施設や病院をたらい回しにされていて、意識はあっても寝たきりで、父のようにショートステイを利用しつつ自宅で暮らしてはいなかったし、息子や娘たちも介護してはいなかった。
 我は、父がこれほどまで長く生きるとは思ってもいなかったし、父よりも四歳下の母のほうが先に逝くとは予想だにしなかった。そしてそうした想定外の事態の果てに、今、還暦の息子とその九十代半ばにならとんとする父との男同士二人暮らしが続いている。これもまた神のはからい、思し召しであるのだろうか。何のためか。その「意味」はまだわからない。

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[日々雑感]

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