老いて死に行く者に、最後に残るもの
2018-07-15



 ただ、そんな父は、特にどこか悪い所がないといっても「元気」というわけではなく、もう今は、自力では立ち上がることも難しく、歩くのも杖ついてもよく転び、何かに掴まってやっという有様で、食べるのも嚥下障害で咽て咳き込み、食べさせるのも一苦労、さらに認知症も進み、寝ぼけたときなど今が朝か夜なのかもわからないどころか、今どこにいるのかさえわからないときもままある。
 汚い話だが、便意も尿意も認識できず、終日、履いている紙パンツの中に垂れ流しである。
 歩けず食べられず何もわからなくなって、当然共に暮らしその世話する者として疲弊しうんざりもし時にキレることも多々ある。もうこうなればどこか介護施設に入れてしまおうかと何度も考えたし、多くの心ある方々からもそう勧められた。
 が、それはまだできない。というのは父自身がそれは絶対にイヤだと望まず、できるだけこの家に居たい、この家で死にたいと懇願するからだ。

 そう、何もできなくわからなくなってもまだ父には、しっかり感情があり、呆けても意思をこちらに伝えてくるのである。ならば、その意思を無視して施設に連行し収監させることは息子は出来ない。せいぜいショートステイをロングにしてできるだけ長く介護施設に通ってもらうだけだ。
 もちろん呆けがもっと進み、家に居てもここがどこだか常にわからなくなったり、眠ってばかりになれば、「ここ」であろうと施設や病院か「どこか」であろうともう何もわからないのだから我が家にいる意味はない。
 しかし、父に意思や「感情」がある限りは、その思い、希望にできるだけ沿いたいと思う。

 老いた人と長年連れ添ってわかったことは、何もできなくなっても人には最後まで気持ち=「感情」だけは残っているということだ。ただ、それも喜怒哀楽でいえば、喜樂よりも怒や哀、それも不安の感情が強く、何もわからくなった分だけ、気楽さが消えて、不安や怖れの負の感情に囚われるのかと推察される。
 だから父は常に、すぐ忘れてしまうのに今日は何日か、カレンダーや時計を繰り返し執拗に見たり、施設に持って行くもの、持って帰って来たものも忘れものがないかと心配でならず何度でもバックを開けて確認したりこちらに問い質してくる。
 ここまで長生きしたのだから好々爺としてもっとのんびりと悠々自適になっても然るべきと思うが、ますますもって父の不安神経症は老いてさらに烈なりなのである。

 父を観ていてこうも思う。昔から希望する死に方として、ピンピンコロリ、が望ましいと言われた。つまり、ずっと元気で長生きして、死ぬときはあっけなく、あまり長患いなどで家族を煩わすことくなくポックリ死ぬのが良いと。
 が、人はその死に方さえも自らの思うように、望みどおりにはならないのではないのか。むろん、長年の暴飲暴食、過度の飲酒や喫煙で自己管理を怠れば、不摂生のあげく長くは当然できないだろう。
 しかしそれでも長生きする人はいるだろうし、若い時から健康に常に注意していても早死にする人も出てこよう。
 我が父も若い時から病弱で結核で入院したことも前立腺がんを患ったこともあった。病気の宝庫という人だったのが、何故か長生きして呆けても感情を保ち、この家で死ぬまで暮らしたいと強い意思と意欲を示しているのである。
 このままだと冗談抜きで最後の日本兵として、話題になるかもしれない。思うに、父が今も生き、生かされている理由は、あの悲惨な戦争の生き残りという一点のみ、その「役割」を与えられたからかもしれない。
 ならば父からもっと戦争の話を聴かねばならないのだが。

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[日々雑感]

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