人生、混乱と混沌の「本と音楽の日々」は終わった
2022-05-15


★さあ、次の人生のファイナルステージへ

 2022年5月14日の「フォーク・クラスターズ」解散&結成コンサートは昨夜無事終わった。
 毎度ながら失態失敗の嵐は吹き荒れ、個人的には苦い悔やむ思いもワインの底の残滓のように心に残るけれど、ともかく成し終えられて良かった。
 これも場に来られた皆さん、親愛なる気心知れた仲間たちのおかげだと今心から思う。終えられて満足している。

 自分の実力、つまりじっさいの姿をそのまま曝け出すことはできた。音楽にこれからも関わり続けたいと思うけれども、もう人前で演ること、唄うことはないと今は思っている。まあ、当面の気持ちだが。
 高田渡の盟友かつ主治医でもあった故藤村直樹氏は、医師として自らの死期を前にして「中休みコンサート」と題して京都拾得でラストコンサートを企画しそのダンディな姿を観客の前に永遠に残してくれたが、今回の「解散・結成コンサート」も我マスダにとって、それに倣い臨んだつもりだった。
 ただ、直前になって我の老父の体調に異変があったり、予定していた出演者が急病で不参加となったり、いつものことながら不休不眠、多事多難な状況のなか、練習も準備何もかも思う存分に取り組むことができなかったことが心残りである。
 しかしそれもまた神の計らいであり、問題はその苦い杯を我はきちんと感謝の上で飲みほせたかどうかだ。我の罪はまだ深い。

 「うた」とは、つまるところその人の人生そのものなのだと今は思う。人生とは人柄、人間性、生き方も含めてのことで、「本」と「音楽」とを比べれば、本は、その人生の外側に在るもので、うた、は、内側、内面のものだと言えよう。
 本は、自己表現とはならぬが、読み手自らに多大な影響を与えてその人の人生を変え新たな道への指針となり動かしていく。
 うたは、やはり自らの表現でまずあって、一人自宅でカラオケでマイク握るのはともかくも、やはり他者を前に「聴いてもらう」限り、こうした文章と同様に、その人の内面、表現も含めて大きな発出と言えよう。※文章はすぐその場で反応、反応は返ってこないが・・・。
 そして、我は、その混沌、混乱の人生そのままに、自らの「うた」も、自らが出るライブの場も含めて、ただ拙く混乱と混迷の極みであることを今回今更ながら確認できた。
 つまるところ、これが自分のうた、そして人生なのだと得心した。情けないがこの現実を受け容れていこう。

 世の中には、本当に唄うことが好きで、どれほど喰えているのか知らないが、こうしたフォークの世界でも専業シンガーが多々いる。
 そうしたプロのシンガーを数多く観てきて、その精神的タフさと共に、やはり本当にこうした表現行為そのもの、唄うことが心から好きなんだと気づかされる。
 残念ながら我にはそれはなく、表現行為だけ捉えれば、やはり書く側、つまり「本」や文章の人間なのだと思える。恥ずかしくも今さらそれがはっきり認識できた。
 また、それは、「編集」や「企画」などプロデュースの仕事とも近しく、よって音楽のコンサートなどを企画すること等は、そうした流れの一環としてやってきたのだとも気がついた。
 これからも時間的、体力的、そして経済的な余裕もあれば、そうしたライブ企画はやっていくとも思えるが、ともかくこれで我は「唄う側」とは「中休み」して当面終わりとすることをこの場で記したい。

 人生の折り返し地点はどこにあるのか、何歳なのかは、その人が死んでみないとわからない。70歳で棺の蓋を覆えば、35歳前後がその人の折り返しの年齢だとわかろう。そこに意味はない。
 ならば、折り返しではなく、人生をある年代ごとに分けて考えれば、青年期、壮年期、そして老年期とするのが正しいとして、三つに分別できる。

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