さあ、もう一度、「親密なる」確かなものを求めて
2020-06-08


★人生がまだ続いていくならば

 申し訳ない。いろいろあってブログも長い間更新できなかった。どうしてしまったのかとご心配された方がいたとしたらまず心からお詫びしたい。

 自分にとって、「危機」、「破滅」というのは常に自らの内にあり自分でもたらすものであったのだが、今回はそれは外から来て、ついにそれに〓み込まれてしまった。長い人生でもこんなことは初めてだ。
 言うまでもない「コロナウィルス騒動」である。いや、我に言わせれば「コロナ・ファシズム」というべきか。
 長くなるかと思うが経緯を記していく。

 先に心霊?的不可解現象に悩まされたと書いた。その主に真夜中に鳴るチャイムの音は終息した。※5月末の土曜日の朝、父が在宅のときに一度鳴って以来鳴らなくなった。と、思ったが、この5日の夕刻にも父がいるときにまたもや鳴ったが、以前のような深夜に何度もということはもうなくなった。

 ネットで話題の妖怪アマエビだかアマビエだかよく知らないが、悪疫であろうと悪霊であろうと我は退散は願わずコロナも含め何であれ来るものは拒まず受け容れていくことに決めた。
 そう開き直って覚悟決めたらそのチャイム騒動は収まって来た。※しかし不思議なのはもう鳴る機械はすべて取り外したはずなのに、まだどこからか鳴るときは鳴るという「事実」である。しかしもうそのことは何も怖れないし気にしない。
 それよりも我を苦しめ不調に至らしめたのは、コロナ禍による「不自由さ」の強制で、繰り返しになるが、もうこの国に自分の居場所はないように感じていた。

 コンサートが開催不能となったこともだが、街に出ると様々な「三密」禁止処置に遭遇して息詰まりともかく不快でならなかった。マスク着用していない者は入店を拒むこともだが、どこそこの施設を利用するに際し、間隔とって並ばされ、頭下げて非接触型体温計で体温を測定され入店の可否が決められるなんて絶対に耐えられない。我が人に頭を下げるのはミサのとき、司祭にだけと決めているのでもしそんな「強制」を受けるならばその場を立ち去るしかない。

 また何より不可解かつ不愉快なことは、そうした店側の「法則」をスーパーやドラッグストアなどの商業施設ではくどくどと何度でも放送で流して客に強い求めていることで、レジの前でも一人づつ社会的距離を保るようにとか、もしマスク無しで来て咳が出そうなときは口をハンカチなどで押さえるようにしろとかいちいち細かい指示にイライラしてくる。

 しかもそうした異常な事態に国民の多くは、誰も異を唱えず大人も子供も与党も野党も唯唯諾諾と従っていることだ。このコロナウイルスより日本中に広がる全体主義は、我にすれば戦時下と同様のファシズムだと感じるが皆それをおかしいと思わずただ言われるままに自粛し「新しい様式」を粛々と受け容れている。
 先日も夏日でもマスクをして顔覆って炎天下に走っている人を見たが、熱射病で倒れる危険性よりもコロナ感染阻止・予防の方が彼にとっては重要なのだろうから呆れ果てるしかない。

 そもそも国民皆保険とはいえ、医師も病院ベッド数も抗体検査数も医療体制何もかもが他国に比べて脆弱なこの国で、コロナ感染t拡大後、現在のような患者数・死亡者数で推移してきていること自体、まさに暴言大臣・麻生氏の言うように「民度のレベル」の違いだと言うしかない。同感した。ただし我は民度が高いとは思わない。真逆である。
 コロナとの闘い、という名目の前に、様々な自由、私権が制限されても当然とされて基本的人権、中でも皮肉なことに「生存権」が損なわれているのではないのか。何より人間としての尊厳が脅かされていると考えるのは我だけなのか。
 むろん感染拡大させない、じぶんを守ることが大切な人を守ることに繋がるというリクツには誰も異論も抗いもできやしない。しかしここまで官民挙げて一体となって過敏に過剰に自粛委縮した国民は世界に類がないと思える。


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[日々雑感]

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