すべて、それは何かのメッセージ
2017-05-12


★見えないものでもあるんだよ、と。

 運命論者ではないが、我は見えないもの、目には見えないが在るものを信じている。
 すべて起こる事には、原因があるように、それをもたらす何かのはからい、要因が示されていると思える。啓示と呼んでも良い。目には見えず言葉として聞こえはしない。が、人にはときに警告、メッセージとして誰しも与えられているのだ。

 先のことはわからない。だからこそ、人は先のこと、これから先に何が起こるか、待っているのか知りたいと願う。そのための方法として古来古今東西、様々な占いや呪術占術、気学易学のような思想が生み出された。
 古本屋として常に様々な本が入り様々な本と出会う。その年が過ぎれば売り物にはならないが人は毎年よく買うなあと呆れるのが、「木星人の運命」など細木和子による星人ごと記された毎年度の占術の本であり、今はブームも過ぎ去ったがドクターコパなる者の風水の本などもある。
 それに高島易断が出すものも加えれば、主に年寄りだと思うが、若い人も含めてかなりの人たちが、そうした非科学的運勢「占い」本に頼っているのだと思える。
 昔ながらの街頭での易者たちがやっている占いさえも、じっさいによく当たるとは思えないが、ある程度は信じているからこそ、それを頼りに、あるいは指針とすべく人はそうした本を求めて読むのであろう。

 我は星座占いにしろ血液型にしろ、そのカテゴリの幅が大きい占いはまったくアテにならないと考えている。人の数だけそれぞれ運勢は梅井は個別にある。気学で個人を個別に生まれた時刻などから細かく調べれば、ある程度の運勢は出るし当てはまるかもしれないが、獅子座は今日はツイてる、新しい出会いがあるという運勢占いを見ても一笑にふすしかない。
 我は易占など運勢について古来より人類が考えて生み出した先を読む法を一概に否定はしないが、手相、人相、家相も含めて街中の占い師、そのベストセラー作家女史やテレビに良く出る霊能力者、祈祷師の類もまったく信じていない。むろん霊的世界はあるとしてもだ。

 しかしそんな我でもこのところ心がけていること、ことにおいて気に掛けているモットーのようなものがある。日々の祈りや信仰など宗教とは関係ない。
 今日は金曜、我が会員となっている飯田橋の名画座ギンレイで、二週替わりのラインナップの最終日だった。明日からまた新たな映画に代わってしまう。
 今日までのは、チェット・ベイカーの生涯を、情けない男を演じたら当代随一のイーサン・ホークが演ずる伝記映画と、スペインの鬼才アルモドバル監督の最新作の二本立てだった。
 我は昨日、サイトを覗いて気がつき、そのどちらにも興味あるので今日はせめて1本でも観に行けたらと、出かける予定でいた。

 今日は幸い父は、デイケアに行く日であって、しかも早出なので、父を送り出したあと、我も駅へ向かえば、朝一の10時過ぎから回と昼からの次のもう1本も見終えても2時頃で、都心に出ても何とか父が帰ってくる頃にはウチに戻れると考えていた。
 そのつもりで、父を朝8時過ぎに送迎の車に乗せて、我も出かける支度し始めた。ところが、肝心のギンレイのシネカード、フリーパスポートが何故かみつからない。財布などあちこち探したけれどどうしても出てこない。そのカードがないと行っても実費で入場料を払うしかない。

 9時過ぎまであちこち探したが、みつからないので、心残りではあったが映画は諦めて出かけるのを取りやめにした。
 そして自室二階の片付け、自分の溜まった書類の整理などし始めたらすぐにカードはひょっこり出て来た。それからでも急いで出れば、昼からの1本は見ることはできたが、やはり今日は出かけるべきではないのだと思い直した。

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[日々雑感]

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