病人が身内にいるという憂鬱
2016-02-01


★寒さと憂鬱気分を吹き飛ばせ!       アクセスランキング: 164位

 2月に入った。一年で一番短い、しかも厳寒の候、気を引き締めて乗り切らないと春へ繋げられない。が、どうにも気分は鬱々としている。
 理由はいくつかあるが、いちばんの要因は母が入院してしまいその退院の目途もたたないことだ。
 病院に預けているわけだからある意味24時間看護されているので何の心配もないはずだが、やはり何とも気持ちは落ち着かない。むろん容体は予断をゆるさないとか危険な状態ではないが、何か不測のときに備えて携帯は常に寝るときも手元に置き病院からの連絡に備えている。それだけでも憂鬱である。
 コンサートなどで音楽を聴いていても、人と会い話していても気もそぞろというほどではないが、常に母のことが頭から離れずなかなか集中出来ない。
 これまでも何回も父母共にそれぞれ入院し集中治療室に入ったり大きな手術を受けたりして長く入院させたこともあったが、たいてい先の予定、目安はあってのことだった。
 今回はそれがまだ見えていないし医師からの説明を一度も受けていないということもある。が、今書いていて気づくが、やはりいつだって親たち、つまり家族を入院させているときはこうした気分に陥るのだと思い出した。
 喉元過ぎれば、の諺通り、退院でき元のように元気になればこの気分はすぐに忘れてしまう。それは不安や心配というよりもともかく憂鬱に尽きる。
 つまりいつ容体に変化があるかわからないから、「待機」を余儀なくされ気軽に出かけることもままならない。以前のように、気が向けば母と一緒に山梨に行けたのが夢のような気が今はしている。
 家族に病人がいる人、病人を抱えている家庭では皆誰もがこうした憂鬱な気分なのであろう。我もまた簡単に「同情」していたが、じっさい当事者となってみて、その気分を今さらながら思い出している。

 思うに、人間というものは、どんなときでもどんなことでもそのときになって実際に体験してみないことには本当のことは何もわからないのである。話を聞いたり、様子を見たりすれば、その当人たちの気持ちはわかったような気がする。
 しかし、いくら深く「同情」できたとしてもそれは当事者の気持ちとは違い浅はかなレベルのものでしかない。百聞は一見に如かずと言う。だが、さらに言を尽くせば、一見は一経験に如かずが正しいのである。
 しかも情けないのは、体験した当人でさえ時間が経てば記憶も薄れ、そのときの「気分」をすっかり忘れてしまうことだ。
 よほど筆舌に尽くしがたい心身に傷と残る戦場体験のようなものならそうした「風化」はないのかと想像するが、単なる病気やその介護程度の出来事、ちょっと大変な死ぬかと思った程度の出来事だと、そのときはショック受け悩んだり憂鬱にはなるが、過ぎて追わればその時の気分をすぐに忘れてしまう。他者の死でさえもそうではないのか。

 間もなく大震災の年から5年を迎える。あれほどの大事件があったのにも関わらず、今また津波はともかく、原発は次々と再稼働しはじめまるでフクシマの事故などなかったかのような風潮の日本社会である。
 今だって被災し仮設住宅に住む人たちがたくさんいる。そして原発事故により故郷を奪われ戻れぬ人も。そして廃炉に向けた作業だって大して進んでいないし、被害住民への補償だってどうなったのか。
 一億総活躍社会というスローガンは良し。しかし、そのためにはまず大震災の被災者たち全員を救い真の復興を成し終えてからの話であろう。
 目先の景気に一喜一憂するよりもそうしたこと以前の、日々苦しでいる人がいることを知り、彼らのために少しでも手を差し伸べることを人はまずなすべきなのである。当事者の痛みは代われないからこそ知ること、忘れないこと、今なすべきできることを少しでもしていかねば。


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[日々雑感]

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