行く夏に逝く人を思う
2022-08-31


★夏8月の終わり末日に

 季節の変わり目の前線が停滞しているとかで、このところずっと雨模様、曇りがちの日が続いている。弱いけれど日に何度も雨がぱらつく。
 おかげでいくぶん涼しい日もあったが、今日など湿気がすごくてともかく蒸し暑い。メガネかけている我は、買い物に出、冷房の効いた店から出るとメガネが曇ってしばらく何も見えないほどだ。

 父のこと他、今月を振り返り、これからについて書いていきたい。

 この一か月、正確には、七月の半ば過ぎからだが、父が突然いなくなり、その父不在の生活、新しい日常とどう向き合うか、どう理解し対応していくか、今後のことについてもずっと自問しつつ答えがなかなか見いだせなかった。
 正直なところ、施設内でのコロナ感染は仕方ないとしても、運よくこの病床逼迫の中、コロナ専門病棟に入れたわけで、コロナさえ癒えればまた再び元の生活、これまでの日常に父も我も戻れると思っていた。
 まさか、そのコロナ感染がきっかけで老衰が進み、死の床に就くとはまさに想定外であった。
 むろん百歳近い超高齢であり、この一年ほど急に〓せ衰えてきて、頭も身体も老衰から死期は迫ってきていることはよく認識しその覚悟もしてはいた。が、このところはやや食事量も増え体重も戻って来ていたので、この夏をまず乗り切れば、98歳の誕生日を迎えられ、来年の正月までまあ何とか過ごせるのではと安易に考えていたから、この突然の新たな事態に正直動揺した。
 こうして父の死期は来るのか、それをただ受け容れるしかないのか迷い悩み悶々鬱々とした。

 これまでも書いたが、何より辛いのは、今もまだコロナ禍中ということで、一切見舞にも行けず、父に対して我は何もできないことだ。
 繰り返しになるが、これまでも父は誤嚥性肺炎と大腿骨の複雑骨折で長く入院し、一時期はかなり痴呆と全身の衰弱も進んだことがあった。それが90歳を過ぎた頃で、医師も看護師も誰もがもう回復して再び自宅に戻ることは難しいと思っていた。
 が、そのとき我は日々昼夕時の食事介助に病院に通って、父に食べさせながらその都度声かけて励まし刺激を与え、その甲斐もあってその時は、頭も身体も回復し再び自宅に戻ることができた。そして今までさらに生きてこれた。

 今回もそのときよりは歳もとり、かなり父の老衰は心身進んでいたが、息子である我が食事の都度、自宅と同じく声かけ毎食介助していけばまた再び口からの食欲も戻り、痴呆も回復し体力も戻り再び元のように、我家に帰れたはずだっただろうと今も確信している。が、現実は・・・
 父はコロナ入院の10日間で、刺激のないベッド生活が続いたため痴呆と全身の衰弱が進み、徐々に自ら食べられなくなって意識もはっきりしなくなってしまった。
 コロナは癒えて別の病院に転院したものの、やはり一切外からの刺激はなく、意識も朦朧とする状態が進み、もう口からは何も食べられないからと点滴だけで命を繋ぐような状態に進んでしまい、ついに担当医から余命宣告を受けるような事態になってしまったのだ。

 父がそうした事態に陥り我の気持ちは、というと、ただただ、どうすることもできなくて何とも情けない、やるせなく泣きたいような気持ち、としか言いようがないものだった。
 今でも願うのは、思い切り大きな声上げて泣けたらどれほど楽だろうか、ということだ。
 そして日々、いつ病院から父の異変を知らせる「そのとき」の連絡がくるか、携帯を常時手元に置いて、昼夜問わず耳を澄まし、怖れつつ日々待ち続けた。
 そして今日で、その「宣告」のリミットである。医師は、今のままでは、今月末、30日頃までもつかどうか、と8月12日の面談のとき我に伝えてきたのだった。
 しかし、今日8月末日夜の時点では病院からは何も連絡はない。父はまだこの世に在る。


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[日々雑感]

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