すべての終わりを前にして、今A の続き
2022-05-10


★ここらで「ライブ」関連の活動はいったん終わりにします。

 これまで拙ブログや、その他あちこちで書いてきたことだから、手短に書くが、我、マスダは、2005年4月の、高田渡の死がきっかけでフォークソングの世界に戻ってきた。
 戻ってきたというのは、それ以前、もっと若いとき高校生の頃は、吉祥寺のぐゎらん堂に出入りして、大阪の天王寺野音での「春一番」にも、東京から夜行列車で何回も参加したり、自らもギターを手に下手な自作のうたを唄ったりといっぱしのフォーク少年であったからだ。
 しかし、学生の頃を過ぎて社会に嫌でも出るようになると、時代は80年代となり、フォークソングそのものも下火になり、我も生活に追われて、MTVなどで洋楽は見聞きしていたものの、日本のフォークとはすっかり疎遠になってしまっていた。

 そんな我を、ネット古書店仲間が、渡が死んだってよ、と、小金井公会堂で催された、彼の友人たちによる直後の「お別れ会」に誘ってくれて、そのコンサートで大きな衝撃と深い感動を受けた。まさに人生がそこで大きく転換してしまった。
 それを機に焼けポックリに火がついたの喩え通りに、我のフォーク熱は再燃し始め、すぐさま若い頃から存じていた中川五郎氏に連絡して、彼のライブに出入りするようになり、岡大介やみほこんや多くの若き素晴らしいシンガーとも出会うことができた。
 そして京都の古川豪氏を通して館野公一さんとも懇意となり、谷保のかけこみ亭にも出入りするようになり、またそこで多くの素晴らしいシンガー、ミュージシャン、ライブ仲間とも知り合うことができた。
 そうしたことを折々にブログで書き記していたら、それを読んでくれた漂泊のシンガー太田三造さんから連絡があり、彼を通して偉大かつ伝説的な両国フォークロアセンターの国崎氏とも親しくお付き合いするようになった。
 そうした多くの素晴らしい出会いから、我のフォークソングの世界は大きく広がり、コンサートの企画を立てたり、やがていつしか若い頃のように、自らもまたギターやハーモニカを手に拙いながらも唄い、自作の曲も作るようになっていった。
 そして近年は、谷保かけこみ亭のぼけまる氏のご厚意により、、館野、太田さん他多くの仲間たちのご支援・協力を得て、そこで『護憲と反戦平和のための「共謀」コンサート』も昨年末まで4年間で30回近くも我の企画、司会進行で開催することができた。有難いことだと言うしかない。

 だが、2016年の秋に、我が母が先に逝ってから、認知症かつ超高齢の老父を我一人で介護するようになり、樹々生い茂る庭を持つ家の維持管理に加えて増えすぎた猫たちの世話もあって、家のことは我の手に余るようになってしまい、今や我が家は内外「ごみ屋敷」化してしまった。
 父もまだ健在だが、百歳近くとなってきて、我も還暦を過ぎて、まさに老々介護となってきてしまい何をするのも疲労困憊、すべてが手いっぱい、何一つかたづかず何もかも行き詰まり収拾つかなくなってしまった。
 そうしたことから我の趣味であるフォークソングのライブ企画も昨年2021年末で終わりにしたのだが、このロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、今春、4月3日、反戦と難民支援のコンサートを企画・開催したのは、まさに、やむにやまれず、の思いからだった。
 ※当日寄せられた寄付金は、きちんと全額国連に送りました。

 我、マスダは、この近年、特に、かけこみ亭での「共謀コンサート」での「前座」として、主催者特権として、自らも下手くそながらも臆面なくコンサートの幕開けに毎回少しだけうたってきた。
 また盟友太田さんとのユニットで、我の詞に彼が曲をつけた「共作」のうたも何曲も生れ、それなりに一部では評価されるようになってきた。

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[日々雑感]

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