寛容と不寛容考〜人は己の正義を過信していないか
2022-03-30


★なぜ、戦争は絶えないか

 エラソーな物言いだとご批判受けることを承知でちょこっと書く。

 今の人は、どうして他者にここまで寛容でなくなってしまったのかと嘆くような気持になることが多い。
 我もこのところは、常にマスクをつけているが、犬との散歩のときなどは、早朝だし、人と出会うことも少なく、そもそも一人なのだからマスクしていないときもある。
 また、ホームセンターや近くのスーパーに入るときなど、顎まで下げていたマスクを鼻まで上げるのを忘れてそのままアゴマスクで入店したりする。
 と、道などでは、通りすがりに向こうから走って来た自転車から「マスクしろよ!バカ野郎!!」と罵声を浴びせられたり、店では、「おい!!お前、きちんとマスクしろ!」と通りかかった客から呟かれたりする。
 そうしたことを思い出すと、1回や2回ではない。そう、我に怒り、叱りつけるのはきまって中高年の男性である。オバサンも一人はいたか。
 確かにマスクは今の時代、着用必要な社会常識なのだろう。そのことに異論はない。
 が、していないからといって、「バカ野郎!」はないと思うし、そもそも言いようがあるのではないか。きちんと立ち止まって、面と向かって諭すのならともかく、皆、そうではなく通りすがりに罵声のように我に文句をつける。
 我は呼吸器系に病気はないが、マスクは冬季など眼鏡が曇って見えなくなるし、何より息苦しく、できるだけしていたくない。だからといって、人混みや店内で着用を拒み、面倒なトラブルを起こしたくはないわけで、基本的には世間の慣習に今は合わせている。
 それをちょっと逸脱したからといって、いきなり通りすがりに、そのことで怒鳴りつけてくる神経を疑ってしまうのは、こちらがオカシイのか。

 マスク着用は、行政側の要請であって義務ではないが、我も社会の常識としてそうすべきだと理解して抗う気はない。しかし、なかには、呼吸がそもそも困難でマスクはできない人も確実にいるはずだろうし、マスクをしていない=世間の流れから外れた人に出会ったからといってすぐさま怒り出すのはあまりに不寛容ではないだろうか。
 人にはそれぞれ事情があり、たかがマスクなのである。過ちや失敗に関してもそこに情状酌量の余地は残すべきであろう。
 ところが今の人はそれを許さない。

 自らと異なる考え方や意見を持つ人だと、すぐに「敵」と断定し、完全否定し口さえきかない人に先日出逢ったが、そうした傾向は、いまは、若い人よりも高齢世代に多いような気がする。
 安倍晋三もそうであった。選挙戦最中の演説途中、彼を批判し声上げる人たち――異なる意見や考えを持つ市民を名指しで、「こんな人たちに負けるわけにはいきません!!」と否定し拒絶した。
 政治家ならばこそ、異なる意見や考えの人、しかも彼らは有権者なのだから、その人たちの声にも真摯に耳を傾けるべきであるはずだろうに。
 だから彼は気の合う仲間たちだけと親しく優遇し、特別に計らい特待していく。そして結果、様々な怪しい事件が起き自殺者さえ出してしまった。
 そうした誤った傾向は、国民が範とすべき政治家だけではなく彼らによってなのか、今やこの国の全世代に広がっている気がする。
 自らと同じ傾向、考えの近いもの、気の合うものは、仲間、味方であり、意見の合わない者、こちら側全体を乱すもの、大勢に従わない者は「敵」だと即断じて、罵声を浴びさせ排斥、排除していく。
 不寛容な時代だとつくづく思う。どうしてこんなに寛容さは消えたのか。
 しかしそれでは、ますます断絶の溝は深まる。排斥された側も含めて敵と味方に別れて、一方が一方を断罪し拒み排除、排斥していく限り、この社会、世界はますます息苦しく諍い、トラブルが起きやすくなる。
 その究極の結果が、戦争なのではなかろうか。


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[日々雑感]

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