2021-06-29
★亡くなられて初めて気づく、彼の偉大さ。
人はおそらく誰もが、幼児期から青春時代まで、その成長に見聞きした、あるいは読んだものでその人格が形成されていると断言出来るかと思う。
むろん教育とか親の躾などの家庭環境、とうぜん遺伝的要素も大きい。が、人格とか性格まで広げなくともその嗜好、趣味的傾向は、大人になるまでにテレビやラジオなどでよく見聞きしたものの影響が大きいと言えよう。
ここは本と音楽のブログだから、本や漫画など読んだものの「影響」についても書くべきだが、まずは「音楽」について、我の個人的経歴、いや、そんなエラソーなものではなく、幼児期から聞き慣れ親しんで、今に至る我の音楽嗜好を形成しているものを振り返ってみたい。
我は、基地の町で育ち、父母共々進駐軍勤めで知り合い結婚したように、半アメリカ人だったから、幼児期より「洋楽」は家に溢れていた。ラジオのFENはもちろんのこと、一番最初に与えられたレコードは、父が基地から持ち帰って来たマーベレッツの「プリーズ・ミスター・ポストマン」の赤盤であった。
と、「洋楽」についてまで広げてしまうと収拾がつかなくなる。
今回のテーマは、亜星さんである。自分がリアルタイムで聴いて来た日本の音楽、邦楽というより、ジャパニーズ・ポップスというべき洋楽に影響受けたうたの数々とその作曲家、流行、ムーブメントについて書いていく。
我より少し下の世代の人たち、1960年代生まれの人は、もの心ついたとき、つまり意識して始めて聴いた音楽は、GS、つまりグループ・サウンズだという言う人が多い。
我はもっと旧い、昭和30年前半の世代だから、その少し前のブーム、『シャボン玉ホリデー』や、『ザ・ヒットパレード』『夢で会いましょう』でさんざん唄われた、日本語詞で唄う米英、そして仏・伊のカバァー曲、そしてそれに影響受けた中村八大、宮川泰らの楽曲にも強く魅了された。
むろんその歌詞は、超訳の天才、漣健児である。そこに永六輔が加わる。
シンガー、ミュージシャンとしては、ダニー飯田とパラダイスキング、坂本九、弘田三枝子、伊東ゆかり、森山加代子、スリーファンキーズたちがまず思い浮かぶ。
ここまでが、幼少期、小学校低学年の頃の記憶で、その後、60年代半ば頃からのエレキ、GSブームを経て、70年代に入ると自分も思春期というか、青春の門口に立って、ラジオを通して深夜放送に慣れ親しみ、日本のフォークソングに魅かれていく。
そのシンガー、楽曲については書き出すとキリはないから割愛するが、一方並行して歌謡曲もラジオ、テレビでずっと聴いていたわけで、当然アイドルにも夢中になり、南沙織、岩崎宏美、太田裕美らを手掛け大成させた、あまりにも偉大な筒美京平の仕事に多大な影響を受けた。
その筒美氏が昨年亡くなられ、もうこれで自分を創り上げてきた音楽的基盤の人たちは、すべていなくなってしまったと感慨を覚えたが、ところがまだもう一方いたのである。
それが小林亜星氏で、死後、彼の成した仕事を確認し、幼少期からのアニメソング、CMも含めてあれもこれも実は彼の仕事であったと気づかされ正直驚き、自分の不明を恥じた。
今思うと、その影響力は、これまで書き記した人たちの誰よりも実は大きいかもしれないと気がついた。そう、自分の中のかなりの部分は亜星さんでできていたのである。
個人的には何故か好きなタイプではなく、寺内貫太郎的な役者としても評価のしょうがなく、人間的にはまったく関心も興味もなかった。
が、やはりすごい人だと思う。ある意味もっとも近しいのはあの浜口庫之介であろうか。ハマクラ先生や、三木トリローにも自分は少なからず影響を受けていると思うが、いかんせん、やはり時代が少し遅すぎた。
リアルタイムで同時代的に生きて直の影響を我に与えてくれた人は、亜星さんしかいない。
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