あの日から10年
2021-03-11


★我家の「今」だけを記す

 またまた拙ブログ、更新できず間が空いてしまって申し訳ない。
 年明けから父の呆けと衰弱が進み、特に今月に入ってからは、介護施設から帰宅すると、この家では飯もろくに食べられず、無理強いすれば吐き戻すことも続いてしまい介護する側として心身疲弊しどうしたものかと頭痛めていた。

 夜は夜で、寝ぼけて自らオムツを脱ぎ捨てシーツを糞尿まみれにするだけでなく、朝起こすとこの季節なのに、何故か素っ裸ということも何度もあって、肺炎起こす怖れからこちらも夜は数時間おきに様子を伺ったりと、落ち着いて眠る事もできなかった。
 幸いまだ介護施設にお泊りには行けているので、父不在の時の我は、ひたすら睡眠不足を補うことと疲れを癒すために眠ってばかりで、
ブログも含めて書きたいこと、やるべきこと、やらねばならぬ私的なことは多々あるのに、何一つ落ち着いて進められないでいた。

 もうさすがに、この家で我一人でこの齢96歳の超老人を、介護し昼夜問わず面倒見るのは限界かと思い悩み、次の段階へと、つまり最終案として特養など専門介護施設に入れてしまうことも真剣に考えた。
 が、幸いにしてこの数日来、やや呆けと深夜の妄動は収まっていて、食事も多くは摂れないが、吐き戻すことも収まってきているので、もう少しだけ様子をみようと今は考えなおしたところだ。
 ※で、介護施設に送り出せ、父は今日の夕方また帰宅して来る。次に送り出すのは、明後日土曜日の朝だ。

 それにしてもだいぶ暖かくなってきたとはいえ、暖房も入れず毛布は二枚ほどしかかけていないのに、何故、衣服も何もかも脱ぎ捨てて、上も下も素っ裸になるのか、まったく理解できない。※さすがに朝、こちらが起こした時は、寒いよ〜と震えているが。
 しかもそれでも風邪もいかず肺炎にもならないでいるのだから、さすがに満州で終戦を迎えた元日本兵は、信じられないほど寒さに強く頑健にできているのだろうと感心するしかない。
 長生きできているのは、元々基礎体力が人並みでなく強靭な人だからここまでどのような状況でも頑張れたのだと今さらながら思い知った。我のような寒さに弱く脆弱で、冷えるとすぐに咳の発作の出るような者はとても父の齢まで生きられるはずもない。

 さて、今日は3.11、あの大震災の日から10年目である。
 フクシマ原発のことや、被災地の人たちのことなど思うことはいくらでもあるけれど、今日はあえて自分のこと、ウチのことを書かせてもらう。

 あの日も今日と同じような明るく晴れた温かい春の日であった。
 その頃は、ちょうど拙宅の増改築の終わり間近で、我は友人を招き、新築部分のキッチンの床に、ワックスをかけていた。
 と、昼食後のちょうど今頃、突然、それまで経験したことのない大きな激しい揺れが起こり、慌てて外へと飛び出した。その後もすぐにまた強い揺れが続いたかと記憶する。
 揺れが収まってから、先に完成していた裏の部屋にいた父の様子を確認した。父はベッドで横になっていたと記憶するが、眠ってはなく、本か何か読んでいて屋内には特に被害などはなく我家は無事であった。
 その頃、母は・・・

 前年の夏頃から体調不良が激しく痩せて何も食べられなくなっていたのだが、その年の年開けにようやく癌罹患だと判明して、原発である卵巣部の癌の部位を取り除く手術を終えたばかりで、立川の病院に入院していた。
 翌日だったか、ともかく出来るだけ早く、その病院に出向き、容体を確認したが、その古い病院自体もかなり揺れたようだが、母曰く、あまりに揺れていたので また高い熱が出て、震えでも起きたのかと思ったと笑っていた。
 そしてそれから一か月もしないぐらいで、母は無事退院出来、ほぼ新築となった我家に、ある意味九死に一生を得たというべきか、奇跡的に生還できたのだった。

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[日々雑感]

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