2020年の良かったこと・その4.キジ子のこと
2021-01-13


しかしこう、すぐに思い返す。もし、あのとき、そんなにお金がかかるのならばこの子は「安楽死」させてください、と頼んだら我はどんな思いで今在るだろうか、と。たぶんその「罪」の重さでノイローゼになっていたかもしれない。あるいは、もっとひどい何か悪いことが起きたり引き寄せていたかもしれない。
 たかが猫である。どこでもいる猫なのだ。告白するとその後もキジ子と同時に生まれた姉妹は、あろうことかウチの前の道で大型トラックに轢かれたのか事故死してしまった。
 勝手に生まれて、そんな風に勝手に死んでしまうのが、外にも自由に出入りしている猫の宿命なのである。
 しかし、それもまた縁あって我と関わり、助けをもとめて来たのならば、我はその助けを無視することはできやしない。お金のことはさておき、ともかく出来るだけのことはすべきだと考えるし、我の今回の判断に一切迷いはない。
 よく、そんな「障害者」になって可哀想、三本脚で苦労するのでは、ならば死なせたほうが・・・というような声もどこかでしてくる。
 でも、動物は実に逞しく立派で、キジ子は三本でもほとんど不自由することなく、どこにでも駆けあがって自由に走り回っている。
 普段閉じ込めている部屋から何度も脱走して外へ逃げ出てしまい、我は心配で何度真夜中探し回ったかわからない。まあ、利口な子だから遊び疲れると自分でちゃんと戻ってくるのだが・・・

 動物は人間のように同情もしないかわりに差別も偏見もなにも持たない。他の猫たちと一緒にキジ子は堂々と何一つ臆することなくしっかり元気に生きている。
 その猫の姿から我は多くを学んでいる。もし、我の判断で、キジ子を安楽死させてしまっていたら、この「喜び」は得られなかった。いつまでも悔やみ自ら非常を苛んだろことだろう。
 我は、けっきょく50万円で、この「生きている喜び」と「有難さ」を手に入れたのだと気づく。
 ならば安いものだ。そう、命はお金では買えないのだから。

 キジ子の唯一不便なことは、左脚が完全にないため、左側の耳の後ろとかは痒くても自分ではかけないことだ。だから飼い主は、キジ子を抱きかかえては、代わりにそこを掻いてあげてやる。キジ子もうっとりして身を任せてくる。
 障害は不便だが不幸ではない、とは乙武洋匡氏の言葉だが、まさにそう思う。ともかく生きている。まだ生きてそこにいる。それだけで良いのである。有難いことだ。

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[日々雑感]

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