母の命日、三回忌を前にして思うことなどなど・1
2018-09-08


★ともかく二年、父との二人だけの生活を過ぎ越して

 私事だが、今日8日は、母の命日で、母が死んだのは2016年だからまるまる二年となる。仏教でいえば、三回忌ということになる。
 去年、一周忌の時は、あまりにまだ慌ただしかったのと、死のショックからのPTSD的鬱屈状態からようやく抜け出たばかりで、何か実感があまり湧かなかったし感慨もなかった気がする。
 今年はそれからまた一年、今はようやく気持ちは落ち着いて、この二年という母亡きあとの歳月を噛みしめる余裕もできた。

 改めて時のたつのは早いと嘆息してしまう。長いような短いような、という表現もあるけれど、まったくあっという間で、気がつけばいつしか早や二年が過ぎていたという感じである。
 去る者は日日に疎し、と言われるけれど、母のこと、寝たきりとなってから死に至るまでの日々は、どうでもいい細部の記憶が失せて来た分、より根幹のところは鮮明にビビッドに、今もありありとしっかり思い出す。
 死後一年めの頃は、夢の中に生前の母が元気な姿で何度も出て来て、その都度、夢から覚めては、母はもう死んでしまったのだ、この世のどこにもいないのだ、と気づき愕然とし、泣きながら起きたことも多々あった。
 が、最近はもう母はまず夢に出てこないし、たとえ夢で母と会ってももう起きても泣くことはなくなった。それだけ母の死ということが自らの裡に認知されて、ようやく現実として受け入れたということなのかと思うし、あの世の母もまた「成仏」したのかとも思える。

 そう、二年が過ぎたのだ。母が死んでしまってから。
 母が生きていた頃、あるとき我は、もしこの母がんでしまったら、自分は一人で生きていけるだろうか、とふと考えて愕然としたことがあった。それほど母は我にとって最愛かつ必要な人であって、母だけが我を愛し常に見捨てずにいてくれたという思いが今もある。
 その人がいなくなってしまえば、我はこの世界でたった一人でどうやって生きていくのか、果たしてそんなことができるのか、と考えて愕然とし怖くなった覚えがある。
 我の中では、母よりも5歳も年上の父の方が当然先に逝くと考えていたし、母の家系は長寿の人が多かったから、まず父を送り、そして母との二人だけの生活が続いた後、いつか、母を送る、と想定していた。※それは母も同じく考えていたと思う。

 拙ブログの読み手の方には言うまでもないが、我は生涯独身で、とうぜん子もなく、好きになった人は何人かいたけれど、こんな性格と生き方故か、誰からも愛されず、親たちが死ねば、嫌でも独り身で生きていくしかない。
 九州に嫁いだ実の妹は一人いるが、疎遠気味だし、その妹の長男、我にとって甥っ子は東京にいるけれど、家族とはいえないし、その甥っ子に老いたとき世話になるわけにもいかない。

 映画『男はつらいよ〜フーテンの寅』ならば、身勝手に生きた独り者の寅さんも晩年はおそらく妹さくらが面倒見てくれただろうし、さくらの息子も親身に世話してくれたかと思うが、我の場合はそうもいくまい。
 つまるところ母だけが我の全てで、その母がいなくなった時のことは考えただけで本当に怖くなるほどだった。
 だから父を送った後は、そのことは母とゆっくり考えようと判断停止にしていた気がする。 
 しかし、人生は、というか、運命というものは皮肉なもので、まず先に逝ったのはあろうことか最愛の母であった。それこそが「想定外」であり、母亡き後、不仲の呆けて老いた父と我は残され、男同士の二人だけの暮らしが始まったのだ。そして二年。

 今、感慨深くつくづく思うのは、ともかくよくこの二人だけで二年間何とか無事に生きて来れたということだ。隠さず書けば、我はキレて父を何度も殺しそうになった。顔の痣が通報され行政が家に乗り込んできたことすらある。

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[日々雑感]

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