自死者の家族の苦しみに思う。
2016-12-04


禺画像]
★宇多田ヒカルの新アルバムに寄せて

 (己が)生きている限り、他者の死に出会うのは避けては通れない。家族を喪い、友を、親しい関係にあった方々を亡くしていく。

 家族だけを見ても、まず祖父母を亡くし、やがては両親を亡くしていく。これは、彼らが年老いた先人だから当然のことで、本来自然の至りなのだから特別に哀しむべきことではない。
 が、物ごころついたときから常に傍らにいて、我を愛し育て、半世紀以上の長き間、長年共に暮らしていた人がいなくなると、それが必然であってもやはりショックだし今も哀しく辛い。

 そして結婚し家庭を築いた者は、親を送れば、次にやがては伴侶=パートナーを送る。大概は、夫のほうが年上であることと、平均年齢でも長く生きる女=妻が夫を亡くす。
 我が家の場合のように、5歳も年上の男のほうが妻に先立たれるということは珍しいとされている。
 しかしそれも運命であって、十分生きた結果がそうであったのだから、そう定められていたのだと今は思えてきた。それもこれも仕方ないことだったのだと。

 しかし、この世には自殺者、自ら命を絶つ「自死者」という死に方も多々ある。それは老いも若きも関係ない。特に若年層に多いとも聞く。
 そうした「死」と出会った者はどのような思いを抱くのであろうか。
 
 死とは、常に別れの哀しみと、もう会えない、喪ってしまったという喪失感に苦しむ。友人知人ならば、まずそういった、もはや二度と会えないことと大切に思う人の永遠の不在に哀しむことだろう。
 家族の場合は、そこに、もう一つ、「死なせてしまった」という悔やみ、無力感を味わい、悲哀とはまた別の悔恨の苦い思いも加わる。
 我の場合、それは怒りのような強い憤りの感情であり、特に我が家で、我が手のうちで母をみすみす死なせたという特別なケースであったから、哀しみに勝って悲憤と痛恨の思いがいつまでも続いていた。

 それが自死者の家族であったらどれほどかと想像する。共に暮らしていてもいなくとも、家族としてどうして自殺に至るまでの苦しみに気づき、くい止め助けることはできなかったのかと自らに問いて責め続けることであろうか。
 自殺とは、自らを殺すだけでなく、家族をはじめ残された周囲の人たちをも精神的に殺してしまう。しかし、その当事者を責めることはできない。
 検証すべきは、死に至った環境、その人を苦しめた状況であって、そのサインに気づくことのできなかった者自身、死んだ者と近しい関係にあればこそ絶対に責めてはならない。
 といっても人の死に自らを責め続けるのが人間なのだが。

 我は数年前、かなり親しかった友人を失った。彼は精神を長く病んでいて、精神科に通院していただけでなく、強制的に入院させられたことも何度もあった。
 同世代であったことで気があい、よくウチにも遊びに来たし、一緒に温泉に行ったこともあったし、我のイベントではいつも手伝ってもらっていた。
 よく彼は強い不安に襲われ、深夜であろうとも電話がかかってきて、彼の抱える心身の苦しみを訴えていた。我は何もできやしないが、話を訊いていれば、彼は心落ち着いてきたようで、多少の助けにはなっていたのかもしれない。
 その彼と秋に連絡がとれなくなり、何ヵ月もたった。以前も突然精神病院に入ってしまうことがあったから、当初はさほど心配はしていなかった。
 が、年明けて、出した年賀状が宛先名不在と返ってきて、さすがに心配になって共通の友人と相談してあちこち確認してもらった。
 彼の両親は早くに亡くなり、一人っ子の独身者だったから、ある意味まさに天涯孤独で身寄りがなかった。
 やがてわかったことは、彼は既に死んでいて、おそらく市役所の福祉課が全部手配し住まいも片づけて、世田谷の家族の眠る墓に遺骨は収められていた。

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