瞬時の判断と熟慮の末の選択、決断が未来をつくっていく
2016-03-10


★戦時とはいえ史上最大の民間人虐殺〜3月10日の東京大空襲
[URL]

 3月10日である。明日はあの3.11、東日本大震災の5年目となる特別な日だが、その前日の10日も、東京に住む者、いや、今70歳以上の日本人にとっては絶対に忘れてはならない平和祈念の日だ。
 一説に10万人を超すという民間人が一晩で米軍機の無差別空襲による爆弾投下とその火災で命を落とした。これはあきらかに国際法に違反した虐殺であり、日本軍による南京虐殺の数字はともかく、ナチスドイツのユダヤ人大虐殺と共に、軍人同士の戦闘での殺戮ではない、一般市民への敵国軍隊による虐殺として共に永遠に語り継ぐ必要があると信ずる。むろんヒロシマ、ナガサキの原爆投下も同様に。加害者も被害者も目をつむらずに。

 蛯名香代子さんのように、じっさいにその大空襲を体験し家族のほとんどを失ったわけではないが、我が母もその世代でその時代生きた者として、その晩のことは今も忘れないと折々3月10日になると我ら子らに語ってきた。
 母はその頃、東京今の北区、東十条に家があり父母と幼い兄弟姉妹の大家族で住んでいたが、何しろその晩は下町の空が真っ赤で、その燃え盛る炎の明るさで新聞が読めるほどだったという。

 そのときは東十条の辺りは空襲は免れたが、母の母、=我の祖母は、もうこれではここいらもいつ空襲で同様の目に遭うかわからないと思い立ち、すぐさま縁故疎開で、栃木県佐野市へ一家をあげて疎開、つまり引っ越しする決断をした。
 結果として、その判断は正しく、祖父は郵便局に勤めていた関係上、一人そこに残って、家で留守番をしていたら、その後すぐの空襲でその家には「1トン爆弾」と呼ばれた、重さが1トンもある巨大な爆弾が落下して、大破、焼失、祖父は幸い瓦礫の中から近所の人たちに救出されたが瀕死の重傷を負った。

 もし、祖母が自ら疎開の決断を即しないでいたら、おそらくその爆弾で、母の一家はほぼ全員が死んでいたかもしれないし、そうなれば母がいないのだから、我も今こうしてここでこれを記すこともかなわない。
 その空襲ではじっさい、その辺り一面で多くの死傷者が出て、母の同級生も何人も死んでしまった。米軍機による無差別攻撃、空襲による民間人虐殺の犠牲者に母もなるところであった。
 その3月10日の大空襲による猛火の炎は、遠く八王子からも見えたと、古老が語っていたのを聴いた記憶がある。東のほうの空が真っ赤に明るかったので、これはいったい何が起きたのか皆寝ないで心配していたと。それほどの地獄の業火が下町を焼き尽くしたのが3月10日なのである。

 その大空襲から今年で71年目となるのかと思うが、さすがにもう今はマスコミも含めてまずそのことを誰も語らないし、何しろ当時を知る者、記憶する人すらほとんどもう残っていない。
 今は、明日の、5年目となる3.11のほうに今の日本人誰もが関心がいっている。それは当然だし今も生々しく思い出し決して忘れてはならないのは言うまでもない。じっさい何一つ復興していないものが今も多々あるのである。時間だけが足早に過ぎていく。

 しかし、その大震災すらもこの東京大空襲ほどの歳月が過ぎれば、ほとんど誰も語らずふれず知らない事件、事故となるのであろうか。つまるところ、歴史とは死んだ者のためにあるのではなく生きている者だけのもので、その体験や記憶した者どもがいなくなればその歴史も消えていってしまうのかと嘆息せざるえない。それはどんなに悲惨で絶対に忘れてはならない「歴史」でも同様に風化していく。

 何で今さらこんなことを書いたかといえば、我はその祖母の、ここにも空襲が来ると察知して自ら疎開を選んだ素早い判断、即決を今さらながら高く評価するからだ。

続きを読む

[日々雑感]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット