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★これも「病気」「障害」だとしても アクセスランキング:115 位
我、マス坊を知る者は、たぶん誰もが感じているだろう。この男はヘンだと。人間社会の中で、どうにも受け入れがたい、対応に困惑する「違和感」と「異質感」、それこそが我の個性であって、実はその当人こそいちばんそれを自覚し他者との付き合い方、距離の取り方がこの歳になってもまったくつかめないでいる。
しかしそんなことよりも生きていくうえで一番悩む、困ることは、ともかく何事もきちんとできない、つまりモノゴトを片付けられないことで、その結果として様々なトラブルや失敗、面倒な事態が多発していく。だらしなさの極致が我だと言いえる。
我が人生を振り返れば、まさにそうしただらさなさ、きちんとできないことからの失敗失態の連続であり、仕事も続かず恋人との関係も長続きせず、友人もできては失うことの繰り返しとなるのは、そのとうぜんの結果、帰結なのである。
これは韜晦でも自己憐憫、自慰的内省でもなく、まったくもって我ながらどうしてこうなのかと呆れかえる。しかし、だからと言って、してしまったことを振り返り悔やんでくよくよしたり絶望に苛まれても、そんな眠れぬ夜は自殺しか道はないわけで、「生まれてすみません」と記して死んでしまえばもう人様にご迷惑はかけないかわりに、老親を深く哀しませ我は地獄に墜ちていく。
今は、我はそんなどうしようもなく罪深い我をも見捨てず愛してくれる「神」の存在を知ったから、こんな我を生かし、生きているのには理由があると信じて、とにもかくにも死なずに、こんな我ができること、なすべきことを自問しつつこの時代を生きている。
しかし、何をやるにしてもその処理能力の遅さ、判断の甘さ、考えの浅さはどうしようもなく、一番の問題は、まずともかく部屋が片付かず、常にしっちゃかめっちゃかとなって、結果として必要なもの、使うもの、大事なのものがみつからないという騒動を繰り返す。
ある意味、我がだらしなさは、革命的にだらしない。いや、それだと良いことのようにとられてしまうから犯罪的ですらある。
ウチでは、無頼庵と称して、拙宅二階の全部繋げば二十畳ほどのスペースを開放して、フォークシンガーを招いてライブや大型テレビでビデオ上映する「映画塾」をやっていた。
が、その企画の度毎に、毎回その数日前から大騒ぎで部屋の片づけ、掃除に追われて当日、客入れの直前までも空間設営、スペースを作るのに必死となってしまう。
毎回やっているのだから、何故にそうした「騒動」を繰り返すのかと自分でも訝しく思うが、そこは生活の場でもあるから、いったん何もない空間ができたとしても時間と共にまたじょじよにモノは増え続けてすぐに足の踏み場がなくなってしまう。ごく頻繁にイベントが続けばそうならないが、今は間に何ヵ月か空いたりしてしまうといくら友人ムラコシ氏が朝から来て懸命に片づけてくれても常に元の木阿弥となる。
どうしていつもこうなのであろうか。若い時からずっと悩んできた。むろん常に何事もきちんとできる人にとっては、そんなん当たり前じゃないか、いったい何故そんな簡単なことができいのかと逆に不思議に思うであろう。バカかこいつはと。頭おかしいんとちゃうと。そう、頭がおかしいのである。
大人になってから古本屋という稼業故に偶然手に取った本で知ったことだったが、この世には「片付けられない症候群」なる「病気」が存在している。それは英語では、ADHDといい、注意欠陥/多動性障害と訳されている。詳しいことは、専門のサイトがあるのでご参照頂きたい。
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