70年という歳月は長いか短いか
2015-08-10


★戦争を知らずに戦後を生きてきて       アクセスランキング:98位

 ようやく一週間以上も連日続いた記録に残る猛暑日も終わりをみせ<
一昨日からやや涼しくなってきた。といっても平年並みの暑さに戻ったということだが。
 あまりに暑い日が続いたということもあるからだろうが、庭のケヤキの落葉が早くも急に始まった。一昨日の立秋からだ。少しづつでも季節は確実に秋へと向かっている。

 様々な思いが心の中を駆けめぐる。原爆忌を終えてこの夏は残すは70年目の8月15日だ。村山談話ならぬ安倍談話は先の大戦と戦後についていったい何をどう語るのだろうか。
 人であれ国家であれ、しでかした過ちがあるとして、迷惑かけた側に対して「お詫び」も口にせずに自らを誇り、これからを語ってもそれで理解してもらえるのか。

 人類の進歩と発展という言葉は今も昔もよくきく。しかし本当にニンゲンは良い方向に進歩しているのだろうか。文明は進歩したとしてもそれは全体として破滅へと向かって歩を進めているだけのような気もする。
 歴史や文明という観点で見たって、かつては栄えたいくつもの古代文明のように、今の我々が達したハイテク文明も近く破滅して終わりを迎えるだけのことかもしれない。
 季節が毎年ただ単に繰り返すように、人類の歴史、特に文明は、生まれては発展し栄え爛熟期を迎え、最後は内から外から様々な要因で自壊し滅び消えていく。
 だが文明は滅びたとしても生物としてのヒトは、全て死に絶えることはないだろうから、またそこから新たな文明が生まれ始まる。それをただ繰り返しているだけなのかもしれない。季節が繰り返すがごとく。

 もし、ニンゲンが一人もいない、死に絶えた世界がくるとしたらそれは他の生物も同様で、この地球も火星や他の太陽系惑星のような何ももう起こらない死んだような無機質な固まりとなるだけだろう。そういう可能性も当然あろう。今は考えても仕方ないが。

 人類は進歩も発展もせずにただ単に段階は違えど同じことを繰り返しているに過ぎないという史観がある。じっさいそう思えなくもない。
 ごくミクロ的に観たって、一つの大きな戦争が終わったとする。その時点では生き残った人たちは戦争が終わったことを喜び、もう戦争は懲り懲りだから二度としないと誓う。が、しばらくするとまた戦争をしでかし、また多くの人々が戦禍に遭い苦しみ戦争の悲惨さに気がつく。そして戦争はしてはならないと誓う。が、さらにまたしばらくすると戦争が始まっていく・・・

 何故そんなバカなことが繰り返し起こるのか。理由はごく簡単で、そのときどき生きている人、関わっている人たちが違うからに過ぎない。
 ある経験を持ちえた人は、学習する。特にそれが痛い苦しい経験だと二度と繰り返さないよう、起こらないよう常に意識して忘れないよう注意する。思い出していく。ならば過ちを再度繰り返すことはない。

 しかし人の一生は長くてもせいぜい80年前後だから、その体験世代が老いて死ぬ前にも次々と新たな未体験世代が増えてきてしまう。社会を動かしている世代も交代してしまう。その彼らはまだ体験も学習もしていないが故、経験世代が禁忌としたことが何故悪いのか知らないしわからない。
 食べてはいけないとされてきた毒の実でもともかく皆でまずは食べてみようとする。食べればとうぜんのこと毒に苦しむ。死ぬ者も出る。大変な事態が起こる。そしてようやく何故にそれが禁忌されてきたのか初めて理解する。
 今2015年の日本、そして世界はちょうどそうした瀬戸際に立っていると思える。

 70年という歳月はあまりに長い。短命な人ならその中にすっぽり丸々入ってしまう。その人は生まれてから死ぬまで戦争を一切知らずに関わることなく人生を終える。ある意味平和を享受した幸福な人生とも言えよう。

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[日々雑感]

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