はじまりのとき、おわりのとき・前
2015-05-02


それらが実に23箱出てきた。試しにひと箱に何枚のLPが詰め込まれているのか数えてみると・・・63枚入っていた。
 むろん日本盤に多い見開きのアルバムジャケットと通常の輸入盤に多い単なるレコードだけを収納するケース状のとは厚さが倍違うことになるので何とも言えないが、仮にひと箱60枚だとしても1300枚以上はウチに戻ってきたことになる。
 ウチにはその他に、レギュラー的に聴くフォークやロック関連が既にレコード棚にそれ以上の量並んでいる。もう棚には入るスペースは今はない。

 ビデオテープの箱もたくさんある。テープの数はベータ、VHSも交えていったい何百本、何千本あるのかわからない。それらはたいてい録ったきり見てもいない。溜まってきて箱に詰めていつか見るつもりでいた。果たして再生いできるのかすら定かではない。
 が、捨てずに、それらはほぼ全部、山梨の二階部屋へ運んでしまった。ウチに置いても見る機会はなく、場所だけとることと、幸いビデオテープは、本やレコードに比べれば軽いので、迷いもしたがけっきょく向こうに持って行ったのだ。

 レコードはどうしようかと考えもしたが、常駐しないところで、火災など万が一の災難に遭うことも考えてやはり手元に置いておくことにした。
音楽こそ今も昔もいちばん大切な関わり持つことであり、特に「レコード芸術」は、音のみはデジタル化され流通することがあってもジャケット含めて失われていくだけのものだから自分が死んだ先のことはともかく、生きてる限りは持ち堪えていきたい。

 呆れ果てられたことだろうか。これは自慢話ではない。自分ですら愚かだと狂気の沙汰だと思っている。が、とにもかくにも捨てずに、ほぼ何も失わずに移動は終えられた。
 かつて、ウチの出入りの大工のところに預けていた荷物が、大工が勝手に青梅の作業場に移動させ失火で全部燃えてしまったことがあった。そのときも幸いにして本とレコードは大工のところに運んでおかなかったのでそれらは無事だった。代わりに我が家の衣類や調度類と私的には古い矢入のギターなど、若いとき持っていた楽器類は全て燃えてしまったが。

 今回も約10年近く、古長屋という倉庫に置いといたわけだが、大して雨漏りもせず、ネズミの被害も少なく、一番大事に思っていたものは全て無傷で戻ってきた。
 で、さてこれから、こうしたモノをどう活かしていくかであろう。むろん売ればプレミア的価値あるものもなくはない。が、それを手放して金にするまでにはまだ少し時間と余裕があるかと思う。

 今はともかく残された時間のなかで、本も含めて一つ一つきちん向き合い過去の遺物とはいえ、スポットを当てていくだけだ。

 世の中には、過ぎた過去のものを例えば引っ越しの度に、右から左へ、それこそ写真アルバムでさえもゴミとして捨てていける人がいる。その人の身軽さを羨ましくも思うが、ではその人がその人である芯というかコアとなるものはいったい何なのかとも案ずる。
 自らを支えるモノがなくたって自分は自分だと確固たる自信がある人は素晴らしい。でもそうしたモノへのこだわりこそが人をして人とならしめるものではないかと我は考えている。

 過去は過去でしかない。二度と戻らない。が、全て過ぎたことだから無意味だと全面否定はすべきではないのではないか。過去からも学ぶだけでなく得るものと活かすところは多々あると信ずるがどうだろう。

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