2013-08-04
★わかる人にはわかる、伝わる人には伝わるでは・・・ランキング: 128位
麻生氏の発言について、一昨日昨日と書いてきた。結局のところ、ネット右翼の方々の国語力が高いのかはともかく、麻生氏の発言の解釈の、世間の大勢はやはり最初にマス坊が理解したようなものに落ち着いたようだ。
当人はあくまでも誤解された、真意はそこにないと思っているだろうが、ならばこそどんな集いであろうとも政治家は常に自らの発言に深く注意を払い、誤解されないように言葉を選び正しい考えが聞き手に伝わるよう努力をしなければならないのである。
そのことは、政治家だけの問題ではなく、自らも含めて話すことだけでなく、書くという作業もまた「伝わる」「伝えていく」ということに細心の中を払わねばならないのだと深く思い至る。
麻生氏の「問題発言」であるが、勝手ながら彼の真意は私解釈だとこう捉えてしまう。
憲法を変えたい。変えるためには靖国参拝のように、内外からわーわー騒がれ国論を二分するような喧噪、狂騒のなかでは変えたくない。願わくばナチスがやったような手口、つまり誰も気が付かず、気が付いたらいつの間にかそっと憲法は変わっていたという手法ができれば望ましい。さらにそのときその新憲法を国民皆が納得し「良い憲法」だと認めてほしい。
ということになる。そこには彼がナチスをどう捉えているかは別とする。想像だが、ナチスを擁護する気持ちはなくとも心底にはナチスの強権政治に対する憧れのような気持ちもあるように思える。それが根底にあったからこそ、ぽろっと「あの手口に学んだらどうかね」という「本音」がうっかり出てしまったように思える。
しかしこれはあまりにもご都合主義というか、虫のいい願望だろう。自民党内で草案を作った時だって喧々諤々の議論が噴出したと当人が語るならば、改憲に際してはそれ以上の喧噪が起きても当然ではないのか。それを騒ぐことなく静かに、願わくば「誰も気が付かないように」変えてしまいたいと願うは身勝手でありそれは国民が許さない。
ただこれはあくまでも筆者の「私感」である。どう捉えるかは人それぞれであろう。これが「誤解」だとするならば麻生氏は簡潔な撤回声明を出すだけではなく、記者会見及び国会などできちんと本当の考え、真意を大衆に向けて説明すれば良いだけだ。
それをしないということはこれ以上口を開くとまたも歪んだ考えや「本音」がぽろっと出てしまうかもしれないからだろうと勘ぐってしまう。
よく、「わかる人にはわかる、伝わる人には伝わる」という言い方がある。これは発言にしろ書いたものにせよ、音楽にせよ、全てに当てはまる。確かにそのとおりである。
が、だからといって、伝える努力、わかってもらう努力は放棄して良いということには当然ならないはずだ。自分も物書きのはしくれとして、プロでなはないがあちこちでこうした駄文拙文を書いている。
そのとき先の、「わかる人にしかわからないだろうなあ」という気持ちがいつもわいてくる。いくら懸命に書いたって伝わらない人には伝わらない。それは読む、読まれるという次元とはまた別の話。
しかし最初から読み手にわかるように、伝わるように書く努力を少しでもしない限りもっともっと伝わらない。それはすべて同じであろう。話し手は聞き手を、書き手は読み手を意識し、こちらの考えや気持ち、伝えたいことを一人でも多くの人に正確に伝えたいと願う。言葉だって音楽だって何だって同じだ。例外として勝手にどうでも解釈してください、という芸術もあることはあるが、人が社会生活を送るうえで必要不可欠なことはこの「伝達」能力の精度を高めていくことなのだと信ずる。
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