2012-11-21
★生き急ぐとは死に急ぐこと
昨日とはうって変わって今日は晴れて暖かく初夏のような陽気であった。風は冷たかったが瑞々しく素晴らしい一日だった。天気が良いとそれだけで気持ちも前向きである。
庭先のケヤキの木に上り、今さらだが散る間際の葉が付いた小枝を刈り取るように鋏でせっせっと切り落としていた。本当はもっと秋の早いうちにこの作業をやれば落葉の数は少なく晩秋の落葉掃き作業は楽になる。が、今年は夏がいつまでも長く暑い日が続いたことと忙しさにかまけてちっとも枝下ろしするヒマがなかったのだ。
うんと高所の高い枝は、体調も考えて危険だと無理せずに切らなかったが、下の方から半分ほど伸びた枝は刈り落としたのでずいぶんスッキリした。これで地面に舞い落ちる落葉の数はだいぶ軽減されるかと思う。木に登って切るのは自分、「社員」は下で落ちてくる枝を集め束ねたり袋詰めの作業を担当した。
実は今日明日と大阪から来られる敬愛する唄い手のライブがある。カレンダーには印をつけて明日はともかく今晩は出向く予定でいた。
でももう高所作業と連日の家の作業の疲れで、時間的にはいけなくはなかったが体力的にもうへろへろフラフラだったので断念してしまった。ややまだ風邪っぽいし、ウチでのライブイベントの準備に追われている今、無理すると疲れが溜まって自分の本番に支障を来たすかもしれない。御身大事、自分勝手だと言ってしまえばその通りでありでもまた仕方ないかと慰撫している。行くと約束したわけではない。でも行けば喜ばれただろうし気持ちとしては来るならぜひ行って会いたい人であった。ただ無理すればその反動は必ずくることも確かなのである。今の自分にはもう無理はできない。
最近よく思うのは、禍福、良いことも悪いことも人それぞれ起こる確率、その総量はさほど違わないのではないかということだ。中には不運続きでしかも早く亡くなってしまう人もいる。が、全体的には人の幸、不幸、運、不運もさほど違わないような気がしている。付言すればある意味、人生に損も得もないと考えるのである。
うんと何一つ不自由なく幸福な人にやがてかなり大きい不幸が来たり、うんと貧乏ばかりしていた人に晩年スポットが当たり過分な金が入ってきたりもする。最初から最後まで幸せのまま生きて死ぬ人もいないかわりに、生涯貧乏で不幸せのままという人もいないと信ずる。
何でこんなことを考えたかというと、近年の水木しげる先生のブレイクぶりを見ていてもう二十年も前に亡くなった手塚治虫のことを思い出したからだ。もう九十歳にもなられる今も元気で活躍されている水木しげるのことは誰でもご存知であろう。じっさいの話、まさか今もまだ健在で鬼太郎をはじめとした妖怪マンガで健筆をふるって人気マンガ家として一線にいるとは誰だって想像だにしなかった。
自分にとってマンガの神様手塚治虫と水木しげるは陽と陰のようなものでどちらも幼少の頃より大好きで深い影響を受けた作家であるが、そこに大きな差が世間的にはあった。むろん、水木先生も「悪魔くん」他いくつもテレビ化されて一時期は売れっ子であったが、やはり基本は漫画雑誌「ガロ」系のマイナーな漫画家であって、手塚先生のように若い頃から第一線で大活躍しずっと陽の当たってきたメジャーな人とは存在自体、格が違っていた。
ただ自分にとっては歳も近しいこの二人はまさにライバルだと思っていたしその「差」を興味深く見つめ続けてきていた。そして手塚先生は60歳で亡くなってすでに久しい。代わって彼の死と入れ替わるようにじょじょに水木先生は老いてきてからこそまた人気が高まり、妖怪で町興しのブームもあって今は夫婦元気で近年テレビドラマ化されたりと話題の真っ最中である。
セ記事を書く
セコメントをする