鎌倉 研・瀬戸口 修・さかうえけんいち@ウッドストックカフェ
2012-09-06


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★どんなときでも唄い続けていくこと〜その確かな歩みがここに。

 良いときもあれば悪いときもあるのが人生、のはずだが、良いときがあまりない人生を生きるとはどんなものか。それはたやすくないはずだ。失礼を承知で勝手なことを書くが、今日ここ神田小川町にあるカフェバー、ウッドストック・カフェに集った三人は実人生はともかくも音楽での人生はあまり良いときはなかったのではないかといつも想像してしまう。
 というのも、瀬戸口さんの話だと彼のデビューは1976年であり、確かさかうえさんも同じ頃だったと記憶しているからで、それはフォークソングのブームは波が引くように冷え切っていく頃であったからだ。
 
 彼らとはほぼ同世代で同時代に生きた自分もその頃ははっきり記憶しているが、フォークソングムーブメント自体は、71年の中津川で一応の「終焉」を見せたものの、たくろう、陽水という二大人気スターが登場してからは市場的にはそれなりに活気を呈していた。
 フォークソングはニューミュージックと名前を変えてかぐや姫ら人気者グループが次々とヒットを放っていた。それで第二第三の彼らにあやかろうとまた後から若いフォロワーたちが歌いだしていた。が、そのブームも70年代半ば頃までで、フォークソングにとって「冬の時代」80年代はすぐそこに迫っていた。そんな頃にデビューした人たちが彼らなのである。

 大阪でのフォークソングの一大イベント「春一番」も79年に終演となったし(※その後現在まで続く再開後の春一番はまた別のものだと考えるべき)、80年代は、MTVなどでの洋楽ビデオクリップ隆盛と日本もロックのバンドブームの時代となってしまうのである。一方アコーステックギターでジャカスカ演って自作曲を一人でしみじみほそぼそ唄うスタイル、フォークソングは貧乏臭いと蔑まされ、ギター抱えて歩く若者の姿はカッコ悪いと街から全く消えてしまったのである。

 自分もまた、70年代後半はちょうど大学に入った頃で、欧米のパンクバンドに影響を受けてバンド活動もしていたし、毎週末には小林克也のベストヒットUSAやMTV 番組をチェックするのに夢中で、かつて大好きだった高田渡らの日本のフォークソングとその歌い手たちのことは全く顧みることはなかった。
 有名無名を問わず多くのフォークシンガーたちが生活のために手に職をつけて音楽とは別の仕事をせざるえなかったし、誰もが一度は音楽から離れることを余儀なくされていた。これは本当か知らないが、ゾウさんこと西岡恭蔵が自殺したのもそんな時代で、むろんそこには愛妻を亡くしたことからの鬱病という根源はあっただろうが、その直前のライブに行った人の話だと客はゼロに近く、そうしたことも彼を自殺へと追い込んだ一因だと語っている人がいた。吉祥寺にあったフォークのメッカ「ぐゎらん堂」も閉店の頃、80年代半ばは惨澹たる客の入りだったと働いてた人から聞かされた。ともかくそうした時代だったのである。

 それが90年代になってからようやくボツボツと生音、エレキではない生のギターの良さが再認識されて、折からのアンプラグドブームもあって、生ギターでの「フォークソング」が再び脚光を少しづつ浴びていくようになる。そしてそれ以降今日までのフォークソングの復権と70年代回顧ブームは今さら説明は不要であろう。
 
 そんな大変な時代に向かう70年代も終わり近くに瀬戸口修、さかうえけんいちらはデビューし歌唄いとして音楽活動を始めていくのである。その道のりはどう考えても平坦なもの楽なものであるはずがない。そしてその当時から彼らと出会い親しくなりやがて唄い出した少し年下の鎌倉研もまた遅れて来た世代として良いとき、楽なときはあんまりなかったかと勝手ながら想像する。


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