神の見えざる手のうちで
2012-05-19


★縁も運も自らが選ぶこと

 このところ家庭内の予期せぬ出来事、世間的には瑣末な雑事に追われてやや疲れ果てていた。その合間を縫って、夜毎ライブ通いが続けていたこともある。でも、出かけたライブはどれも素晴らしく大いに得るところがあった。内容的にもう一つであっても、考えさせられたり奮起するところを得たならば出かけて金使ったかいがある。そのライブも5月は18日のブロンでの岡大介、中川五郎で終わった。

 自分の場合、音楽にせよそのほかのライブ行為にせよ、もう基本的にそこで今また新たに知り合い情報としても何か得ることは考えていない。もう、自分がどんな音楽が好きで何を志向しているかわかりきっているし、人間関係さえもこれ以上手を広げたいとは全く考えていない。決して多くはない友達だが、今ある関係を大切にしていくことが肝心であって、その関係を維持して深めることに追われて新しい関係まで手が回らない。こうしたライブに行くことはミュージシャンへのある意味、義理・恩返しという気持ちでもいる。むろん、応援という気持ちであるのは言うまでもないが。

 だが、人間関係とは不思議なもので、こちらが望まなくても偶然親しくなって意気投合し、友達になることだってある。また逆に、こちらは友達として関係を結び続けたいと願っても何故か疎遠となってしまうことだって多々ある。
 今自分が関係している交友だって、そうしたことの結果であって、決してうんと努力したわけでもそこに明らかな理由などもまったくない。ある意味、全てが偶然の結果であり、その偶然が今は必然となったということにほかならない。

 何かのおりに出くわして、いつしか顔見知りとなって、呑んだり行動を共にしたりすることが多くなって友達となることが多い。だからそこにはまったく理由なんて見当たらない。あるとしたら、自分とその人を結びつける「偶然」があるだけだ。好き嫌いとかもあまり関係ない。じっさい、自分の友人たちを思っても果たしてその人のことを自分は好きだとか好ましいなんてちっとも思っていないことに気がつく。いや、そう言うと語弊あるが、この世は好きだからといってその思いが通じ願いがかなうことなんてほとんどない。それは男女の関係がそうであるように、同性だって同じことで、別に好きでも何でもなかったのに、よく顔を突き合わせているうちに何となく自然に親しくなって友達になっていくものなのである。同級生とか学生時代の友達なんてその最たるものであろう。
 そうして気がつくと結局その人のことを好きになっていることに気がつく。「好き」といっても性行為などは伴わず、要するに必要な、大事な人親しい大切な人となっているのである。ではその関係は何故生じたのか。

 このところよく思うのは、アダム・スミスの謂いではないが、この世のこと全ては神の見えざる手に繰られているということだ。自分としては、今ある人間関係ほとんどが、自ら選び取った、主体的なものだなんて全然思えない。偶然あるとき人から紹介されたり、偶然どこかで出くわしてそこから何となく関係が始まりいつしか親しくなって友達となっていく。そこには理由も努力とかも必要ない。逆の場合、つまり親しく仲良くなりたいのにうまくいかないことが多いのと同じく、どちらも全て自然な無意識的顛末なのである。

 そしてそのことは、親しくなった関係でもまたあるとき急に疎遠になってしまうことも多々あって、ケンカするとか理由がはっきりすればまだ対処の方法もあるのだが、理由なくても縁が遠くなったり切れることもまた少なからずある。また何十年も疎遠な人でも急に連絡があったりまた親しく交友関係が始まる場合もある。


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[日々雑感]

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