20011.秋の京都旅行の記録・前書き
2011-11-08


★旅とは「外」の目ですべてを見直すこと。

 今これを記すのは11月8日火曜日の午後。
 外は明るく晴れて穏やか、暖かく風もない。静かな庭先を眺めしみじみしとした心持ちでいる。金もないが悩みもない、とは友部正人の曲の一節だが、疲れはしているが、悩みも囚われるものも何もなく、気持ちは秋の空のように澄み切って落ち着いている。そう、無事帰ってきたのだ。そしてまだみんな生きている。

 帰ってきたとき親達は所用で出かけていて家には誰もいなかった。犬たちの散歩すませて、餌を作り与えて、荷物を開いて確認してから自分もカップうどんを食べてシャワー浴びて少しだけ寝た。
 親たちも午後遅く帰ってきたので、今さっそく夜久野の荒茶をいれ昨日買ったおみやげ、京の生菓子、老舗出町ふたばの「名代 豆餅」を分け合って食した。賞味期限は買った当日のうちというぐらい手作り無添加の餅菓子だから、一晩たってやや固くなってはいたが、老親と共に実においしく味わって食べた。京都に出向くたび気になっていた、やはり始終行列が出来る店だけある。上質とはこのことを言うのだと思い至る。京の都はやはり素晴らしい。

 老いた父母、そして旅から戻った息子の三人で、晩秋の午後おみやげに求めた和菓子でぼんやりお茶を飲む。何でもないことであるが、果たしてこんな日がいつまで続くかという思いもあり、言葉にならない思いが沸いてくる。嬉しいよう哀しいような・・・。

 たった実質正味三日間の短い旅行であったが、毎度全力であちこち歩き回り、人に会い自転車でも一日走り回った。それでも戻ってくると「旅の目」となっているから、東京でも見るもの会う人全てがこの自分の部屋すら目新しく興味深く思える。そう、旅の役割、意義と価値とはむろん観光、気分転換とか転地療養であるが、いちばんの目的は自分にとっては、自分の家と生活から離れて「人生」そのものを見つめなおすことなのだ。
 「日常」は常に倦んでくる。同じ顔ぶれ同じ風景の中で、ルーティンワークとしての生活の日々を繰り返していると当然マンネリ化もするし誰もがうんざりする。そしてそれに飽きてしまいときにネグレクトにさえしてしまう。人間関係もササクレ立ち、つまらぬことで苛立ち感情をぶつけ合うようになる。他者と付き合わない人も一人でどんどん自堕落になっていく。常に前向きに一日一日を新鮮な気持ちで迎えたいと誰よりも願ってはいるのだが、正直それは難しい。煩悩に心と頭がいっぱいになっていく。

 このところ旅の行きのバスの中で、寝付かれぬままよく考えることだが、人生とは自らが描く絵のようなものだと思う。昔、美術学校に通っていたとき、油絵だったか石膏デッサンの先生から指導されたことがある。あまりキャンバスに間近に向き合わってばかりいてはダメだ、時どき離れて距離をとって全体を眺めて確認しないと良い絵にならないと。
 描いているときは当然白いキャンパスに真剣に向き合い近距離で見詰め細かく描いていく。しかし、それだけだと全体的バランスはつかめないし、末梢末端のことに目をとられて全体像が疎かになっていく。だから時どき席を立ってアトリエの後ろの方から、他の人の絵と同時に自分の絵を眺めないとならない。距離を置いて眺めることによってその絵の全体がつかめていく。良し悪しがはっきりしてくる。

 人生もそれとまったく同じことだとつくづく思える。毎日、仕事や生活と向き合っていると、しだいに日々の瑣末なこと共、どうでもよい末端末節に囚われてしまいかんじん要の全体がわからなくなっていく。あれもやらなきゃ、これもせにゃと人間関係と仕事と生活で頭がいっぱいになってしまう。人生とはさづじの積み重ねであって良いはずはない。


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