過去に学び、未来へ生かしていくこと
2011-09-02


★防災の日は過ぎたけれども

 ともかく蒸し暑くて参っている。今超大型台風が来ていて、このところ東京でも不安定な天気が連日続いている。
 晴れ間も見えたかと思うと、曇って突然滝のような豪雨が降って、またすぐに上がったり全く予想がつかない。
 そんなこんなで湿度が高く、まるで蒸し風呂のように蒸し暑い。というのも窓を開ければ風もありいくらかは涼しいのだが、突然の豪雨が吹き込んだりもするので窓は開けられない。締め切った冷房のない部屋の中で、パンツ一枚でガマの油とりのようになっている。扇風機はつけてもあまりの暑さに頭の芯がぼうっと痺れてくる。ブログも手短に。

 今これを記しているのは2日の夜。台風は四国に上陸したのかこちらまで今夕から急に風が強くなってきた。窓開ければ風も入って来るのだけど、不穏でそのまま眠るわけにもいかない。早く台風が通り過ぎるのを祈るだけだ。

 昨日は防災の日で、3.11を受けて、これまでになく全国的にどこも気合が入って真剣に訓練に臨んだようだ。また、今後の巨大地震に備えて、その対策がさらに急がれるとニュースでも報じていた。
 だが、思うのだが、どんなに万全と思われる対策をしたとしても未来永劫天変地異は必ず起こりうるし、果たしてどれほどの効果あるものか。万物は流転するのが必定なのだから対策や想定は必要だとしても、それと共に人の死と同じく必ず「来るもの、起こるもの」と覚悟を固めるしかないのではないか。

 覚悟というのは、この「今」の、現代の享楽的繁栄も永久のものではなく束の間のものだと認識することだ。どれほど高価なブランド物に囲まれて若さと美貌を誇る人もやがては老い醜態をさらしていく。同じく今の幸福、何でもある快適な暮らしだって永久に続くわけがない。人はやがて老い病み誰もが死に、そして何代か立たばそんな人がいたことすら忘れ去られてしまう。それはどれほどの栄華を誇った都ですら今は砂漠の中の遺跡になってしまうことと同じことだ。ならば金やモノに夢中になり固執し囚われている愚に気づかねばならない。

 3.11以降、過去の大地震や津波などを記した古文書や昔の地層を調べて過去の被害を確認して今後に生かしていく研究が脚光を浴びている。それはとても良いことで、そうした過去に目を向けて古い伝承に耳を傾けていたら今回の大津波のような「想定外」の事態はかなり防げていたかと思える。
 しかし、古いものに囲まれて、古い本を扱う生業の古物商、古本屋としては、そうして地誌学的に過去を知り学ぶ以上に、昔の人がどのように感じ考えていたかを知り、その心、スピリッツを今とこれからにいかしていくべきかと思う。
 論語や儒教にまで遡らなくても、兼好法師や貝原益軒の書いたものでも十分今読んでも面白く参考とすべき普遍的なことが記されている。方丈記などだって、そこにある精神性は、今の我々とほとんど違いはない。読めば必ず共感を呼ぶ。

 いつの時代でも戦などの動乱や天変地異は繰り返し起こり、そのなかで生きていった人々は無常感やもののあわれを感じ、嘆きもしたことだろうが、やがては開き直り諦観の域に達していった。それは一種の悟りであろう。
 科学がない時代だからそうなったと考えてはならない。原発安全神話も含めて科学は万能だと思うほうが間違いであろう。大地震も大津波も必ずまた近いうちに起こる。そして人は必ず死ぬ。ならば、だとしたらどのような覚悟で人は生きるべきか。その答えは、その「古典」とされる昔の人が書いた本の中にある。

生きている限り望まぬ災難や災害には必ず遭遇する。ならばその時どきの“心構え”を先人に学ぼうではないか。

 昔のもの、古いものからこそ真に学ぶべきことがある。何故なら何千年たとうと人の心は何も変わらないのだから。

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[日々雑感]

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