2019-11-07
先に台風襲来の日、台東区の避難所では、助けを求めてきたホームレスの人を、区の職員が追い返したことがかなりニュースとして報じられていた。
それを知って、我はまず思ったのは、まずイソップの『アリとキリギリス』の寓話である。何度も拙ブログでは挙げてきたが、この童話は、カタギの人、つまり真っ当な真面目に生きてきた社会人と、それとは異なるアウトサイダー、自由気ままな人との対比として常に深く示唆に富んでいる。
台東区の、災難に遭ったとき救いを求めてきたホームレスとそれを拒絶した区の職員との応対は、その寓話そのもののように我は思えた。
区側の言い分もわからなくはない。つまり避難所は、その区の住民のためのもので何よりもそちらを優先すべきだとリクツは成り立つ。つまりそこに住民票があるか、きちんと税金を納めているかである。
ホームレスの人たちは元よりホーム、つまり住所がないから、ホームレスなのであり、住民票などはない。とうぜん税金も納めていない。だから、そこは利用できない、させないという彼らの理屈である。
行政としてのリクツは正しい。しかし人としてその応対は人非人である。もし目の前で、彼らが濁流に流され溺れ死んだとしたら、見殺しにした区の職員たちの「正義」は保たれるか。
何より生死にかかわる緊急時ならば、住民票の有無とかホームレスであるかとかはどうでもよいことで、ともかく助けを求めてきた者は一時的でもまず全て受け容れるのが人としての当然のありかたではないのか。それこそが「行政」であろう。営利目的の企業ではないのだから。何よりまずは「住民」の命こそ第一に最優先であるべきで、それはホームレスとか住民票の有無ではないはずだ。
人は人として当然のこと、つまり困窮した人、助けを求めてきた人を前にしたら救わねばならない。それは当たり前のことであろう。台東区の職員は、それを建前を理由に怠った。どれほど糾弾、批判されても仕方ない行いだ。言語道断である。
しかし我は、そこに行政側にイソップの寓話の、アリ側のような、キリギリスに対する差別的気持ちに通ずるものがあったような気がする。
つまりホームレスになるなんて自己責任ではないのか、それで困ったからと助けを求めに来るとは、いかがなものか。ここは、きちんと税金を納めている人たちの場所なのだからと。
この理屈、その気持ちは正しいのか。おそらくカタギの人の心根には漠然と在るのではないか。我もまた一昔前ならそう考えたかもしれない。ホームレスなんて勝手に自分でそうなったくせに、と。
しかしそれは間違っている。誰だって落ち着く住まいのない、明日をも知れぬ不安だらけのホームレスなんてなりたくてなる人はいないだろう。それは「自由」ではなく、ある意味究極の不自由と不安なのだから。
なりたくてなるのではなく、結果としてなってしまい、そしてそこから抜け出せず、ともかく日々必死に生きているというのが現実ではないのか。それがもし不幸ではないとしても、決して満足だとか望んだ「幸せ」だと声を大にして叫ぶ人はいないだろう。
そしてそうなったのは、すべて本人の「自己責任」なのか、だ。
もう一回続きます。どうかお読みください。
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