答えは闘いの中にある〜諦めも失望もしてはならない。
2017-05-23


そして、母の弟や妹たちも、安保改定の闘争、1960年当時は、学生で、母のすぐ下の弟は、あのとき樺美智子さんのすぐそばにいた、と話していた。そのときもまた国会前に詰めかけた国民大群衆の願いはかなわず、安保は強行的に改定されてしまい、以後、今日の対米従属の礎として盤石不動の日米関係に至るのである。
 反政府大衆運動は、そう考えると、常に明治以来負けっぱなしだと見えてくる。
 しかし、では、田中正造たちがやったことが全く無意味であったとは誰も思わないし、負けはしたけれど公害闘争、反政府活動、民衆抵抗運動の先人として、不朽の名を残している。そしてそこから我々は今も多くのことを学ぶはずだ。

 確かに、短期的には勝ち負けははっきりしている。民衆側が勝てたためしがない。彼らは金も力もメディアも持っている。だが、それではこれからも権力者側の支配が永遠に続くかと言えば、そんなことは絶対にありえない。近しい過去を見ても、明治以来の富国強兵、大衆運動弾圧の強権国家の行く末が、人類初の原爆投下の悲惨な敗戦であったように、無理を通せば道理が引っ込んだ挙句、その無理が破綻するときが必ず来るのである。

 だから、祖父母の代からずっと常に負け続けた者として思うのは、負けはする、勝てはしない、が、それは一時的なものでしかないし、大事なことは目先の勝ち負けではない、ということだ。
 祖母は、死ぬまで、面識あった田中正造のことを田中のおじやんと呼び慕っていたが、正造が今も義人と呼ばれるのは、義のあることをしたからだ。義とは、道理であり、人として当たり前のことをしたにすぎない。彼はそのために国会議員の職も投げだし、最後は無一文となり乞食のような姿で不遇のままに死んた。
 が、今も義人田中正造は、我々の中に生きている。いや、闘う者たちにとって闘争の原点として北極星のように不動の光を放っている。
 
 繰り返す。大事なことは、結果だけではない。人は必ず死ぬが、問われるのは結末、その死に方ではない。どう、いかに生きたかだろう。ならば、勝ち負けという結果ではなく、どう闘ったかである。
 そう、すべての答えは、闘いの中にある。そしてまだその闘いは終わっていない。これからも続いていく。諦めも失望することもない。
 闘いはこれからなのだ。

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[日々雑感]

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