6年目の3.11が過ぎて
2017-03-13


嗤われるかと思うが、ようやくこの歳になって初めて人生とは何か、どういうものなのかわかってきた。ようやくその本質が見えて来た。
 人生とはどうしようもない、思い通りにならない現実と向き合う事だったのだ。哀しみと忍耐を抱えながら。

 それまで我は存分に思い通りに人生を生きてきていた。人生とはそんな楽しい好き勝手に生きられるものだと思っていた。そう、あの3.11の少し前までは。母もその前の年の夏頃まではものすごく元気だった。それが癌を患い、幸い外科手術によって一度は癌を克服し復活できたもののこの6年目の3.11には、母はもはやこの世のどこにもいなくなってしまった。

 大震災で家族を、大切な人を失った人たち、家や仕事、故郷すら失ってしまった人たち、彼らにとっては我のこんな感慨はあまりに卑小すぎ嗤われ叱られることであろう。彼らのご苦労や哀しみ、辛酸を思うとき、我の哀しみ、辛さなど何ほどにも値しない。
 が、誰にとっても歳月は平等に流れるとするならば、この6年の年月は幸福があった分だけただ痛恨と悔恨の極みだとしか思えない。母はそれだけ「おまけ」として余分に生きられたのだから幸福だったと思いたいしそう考えるべきだと頭ではわかっている。
 悔やむ思いが今も強く思うのは、その先に死があるのだったらもっとしっかり大事に生きなければならなかったのに、想定もせずに過ごし、いきなり癌にHOLDUPを突きつけられ、なす術もなくあたふたしてるうちに命を奪われたからだろう。
 人生とは誰にとってもそうした予期できない、思い通りにならないものなのであった。全てのものに終わりの時がくる。それは必ず訪れる。今さらながら学んでもすべてが遅い。

 おそらく誰にとっても3.11という日が来るたびに、程度の差はあれども哀しみと苦い思い、辛い痛みを覚えることだろう。復興が成り、荒廃した風景は消えようともその日を思い哀しみに向き合うことこそが人生に対峙すること、人生の核となる大事なことなんだと我は思う。そう、辛くとも受け入れて嘆くことより前を向いて一歩でも進んでいくことだ。

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[日々雑感]

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