善きサマリア人でありたいと
2015-06-22


アリの生き方もちっとも悪くない。アリの人生が正しくてキリギリスの人生が悪だというわけでもない。アリだってアリにはアリの屈託や悩み後悔のようなものは抱えているだろう。ならばそれぞれが持っているもので分け合い助け合うしかないではないか。
 キリギリスのうたは、退屈な刺激のないアリの生活の慰安になるかもしれない。ならばキリギリスの人生だって決して独善的無意味ではないであろう。

 ナザレのイエスは、汝の隣人は誰かと問われ、喩え話を出し、当時のユダヤ人と敵対し口も利かなかったサマリア人だが親切な旅人の例を示した。道に倒れ負傷し困っている人を助けた行きずりの善きソマリア人にこそ正しく倣うべきだと。
 じっさいの話、人は誰だってそこまで他者に対して、まして赤の他人に対して親切にはなれない。しかし、せめて請われれば話を聞き、助言以前にこちらの思うところを話すことぐらいはできるしすべきだと信ずる。だからこれからも忙しくてとも請われ頼まれたことは何でもしていく。

 まあ、その結果、相手は失望し、接する相手を間違えたと後悔するときもあろう。しかしそれすらも反面教師として役に立ったのではないか。人は嗤うであろうが、我もまた少しでも善きソマリア人でありたいと、倣いたいと心底から思う。むろん、やがてはとてもそんな余裕がないときが来るだろうけれど。が、そのときはそのとき、汝思い煩うなかれだ。

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[日々雑感]

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